2010年03月16日
古寺巡礼/土門拳 (長文注意!!)
最近は
ちょっとトサカ立った内容の日記が多かったので(汗)
今日はノンビリ穏やかに
写真集のことを書いてみたいと思います
ブランド志向というと
なんだかとても嘆かわしいもののように
あちこちで語られたりしますが
長年に渡って
多くの人達から支持を得てきたものには
やっぱりそれなりの「理由」も
ちゃんとあったりするわけで‥
小説でも映画でも
音楽でも
一過性でない
根強い人気があるものに接すると
それがなぜそんなに人気があるのか?
っていうことを
深く納得させられるケースが多いように思います
先日図書館に行って
あまりにも有名な一冊の写真集を
時間をかけてじっくり観ました
写真集の題名は
「古寺巡礼」
撮影した人は土門拳です
この写真集は
図書館で貸し出し可になっていますが
とても大振りな本なので
これを抱えて外を出歩くのは
少し勇気?が要ります(苦笑)
この写真集が
そんな具合にとても大きな本なのは
土門拳の強い意向によるもので
自分が撮影した写真集を
可能な限り良質なコンディションで観てもらうために
印刷や製本など細部に至るまで
徹底的に拘り抜いた結果
こんな大判な写真集になってしまったようです
実際
この「古寺巡礼」は
初版本は第一集から第五集まで
五巻に分けて上梓されたのですが
その第一集の値段が
手間隙かけ過ぎたおかげで
一冊23000円もしたんだそうです
初版が出版されたのは
1963年で
当時の大卒の初任給が約40000円だったことを考えると
その当時に
23000円で写真集を出す‥というのが
いかに桁外れなことだったのか
よく分かってもらえるんじゃないでしょうか?
この写真集を出した土門拳についてですが
およそ写真撮影が好きな人だったら
土門拳ほどのビッグネームを知らない‥
なんていうことはありえません
もし
写真が好きなのに
土門拳を知らないっていう人がいたとしたら
その人は
ハリウッド映画が好きなのに
スピルバーグを知らない‥とか
J-POPの女性アーティストが好きなのに
浜崎あゆみを知らない‥とかいう人と同じくらいに
トンデモナイ「もぐり」だと思います(苦笑)
俺はいつも漠然と思うんですが‥
写真界にとっての土門拳の存在は
日本映画界にとっての
黒澤明の存在に等しいような気がしますし
黒澤明と土門拳は
なんとなく印象(重さや固さや真面目さ)
が近しいようにも感じます
先の
写真集出版にまつわるエピソードでも分かるとおり
土門拳は完璧主義者であり
だからこそ
周りにも異常に厳しく
(なので「鬼の土門」と呼ばれていたそうです)
文字通り「魂を削るようにして」作品を生み出す姿は
地上に降り立った「鬼神」そのものだったのではないかな?
‥なんて想像をしたりもします
雁屋哲は
「美味しんぼ」の原案を練るにあたって
北大路魯山人をモデルに海原雄山を生み出した‥
とのことですが
俺は個人的には
海原雄山のあの獅子吼ぶりには
北大路魯山人よりも土門拳の姿を見てしまいます
日本写真界の巨星ということでは
土門拳と並び称される写真家に
木村伊兵衛という人がいますが
木村伊兵衛の場合は
黒澤明や北大路魯山人というよりは
小津安二郎や池波正太郎といった感じの
粋な江戸っ子の印象があります
そのせいでしょうか
同じように粋なParisian(パリジャン)の
アンリ・カルティエ=ブレッソンとは
土門拳よりも木村伊兵衛の方が
断然相性がいいように感じます
実際ブレッソンや木村伊兵衛は
小型レンジファインダーカメラ
(ズバリLEICAのことです‥笑)
を駆使したストリート・フォトや
スナップ写真の印象が強いのに対して
土門拳は
確かに35mmカメラのニコンやLEICAも
しっかり愛用してはいましたが
そういったカメラよりも
ジナーS 4x5のような大判カメラの方が
よく似合う気がします
俺が高校生の頃に
人気のあったトランペッターで
ハープ・アルバートという人がいましたが‥
この人がTVCMで
高らかにペットを斜め上に向けて
踊るようなステップで
渚を往きながら演奏するのを見て
何なんだコイツのこの軽薄さはっ!!(怒)
マイルス・デイビスの爪の垢でも
煎じて飲めっ!!!
‥なぁんて小馬鹿にしたものですが(大汗)
こういった
マイルス・デイビスとかにも通じる
ある種「求道的」なストイシズムが生む
のっぴきならない緊張感が芸術に昇華したときの
問答無用の凄まじさが
土門拳の撮る写真には漲っているように感じます
ハープ・アルバートを思い出したついでに
もう少し音楽ネタを書かせてもらうと‥
1960年代に
全世界の軽音楽シーンを席巻したのは
みなさんご存知のThe Beatlesですが
The Beatles解散の直接的な引き金になったのは
ポール・マッカートニーが
他のメンバー3人を告訴したからで
この裁判が
事実上のThe Beatles決裂を表面化させたことから
ファンの間では
ポール=悪人
残りの3人(中でも特にジョン)=善人
っていう図式が生まれたように聞いています
そういった流れの中で
The Beatles解散後
ジョンとポールが
それぞれソロ・アルバムをリリースしたんですが
ジョン・レノンがリリースした「ジョンの魂」が
恐ろしいほど深遠なテーマと世界観を持っていて
まさに「ロックの哲学者」ジョン・レノンの
面目躍如たるものだったのに対して
ポール・マッカートニーがリリースした「マッカートニー」が
もう本当に(笑)
軽くて牧歌的(?)でほのぼのしていて
ジョンのアルバムに比べて
あんまりにも和み過ぎて(!)いたこともあって
ファンの間では
もうポールは軽過ぎて薄っぺらいからダメっ!
ジョンの勝ちっ!
これで決まりっ!!
みたいな意見が多勢を占めていたように聞いています(笑)
ただ
後になって冷静に考えてみると
全世界のビートルズ・ファンや
ロック・ファンのほぼすべてを敵に回した
あの究極のアウェイな状況の中で
よくあれだけフレンドリーで
ハートウォーミングなアルバムを出せたもんだよなぁ
やっぱポールって天才だよなぁ
‥みたいな意見が盛り返してきたことからも分かる通り
重いものだけが
すべてに於いて優れているというわけでもなく
片や土門拳(ジョン・レノン)のような重い世界もあり
片や木村伊兵衛(ポール・マッカートニー)のように
軽やかな世界もあり
どっちもあって
みんな違ってそれがいい‥っていうのが
一番健全な姿のような気がします
‥話が思いっきり脱線してしまったので(大汗)
話題を土門拳に戻すと‥
俺が初めて
ちゃんと土門拳の作品に接したのは
高校生時代に買った
「筑豊のこどもたち」
という一冊の写真集でした
この写真集の初版が出版されたのは
1960年で
値段は一冊100円だったんだそうです
3年後に出す
「古寺巡礼」の23000円に比べて
「筑豊のこどもたち」の値段が異様に安いのは
消え行く炭鉱の町に暮らす子供達の姿を
ぜひ一人でも多くの人に見ていただきたい‥
という土門拳の強い意向があって
その結果
インクの質や紙質のレベルを
可能な限り「落とした」末に
こんなリーズナブルな価格設定になったんだそうです
このことからも分かるように
土門拳は
自分の美意識や完璧主義だけがすべてで
世の中の常識を無視して省みない‥
といったような人では決してなく
自分の写真に対する想いや目的のために
変化自在に提供方法を変えることが出来る人だったんです
「筑豊のこどもたち」の中に収められた写真は
それを観た高校生時代の俺の心を
強烈に貫きました
プロレタリアなどという生半可な横文字言葉が
裸足で逃げ出すほどの極貧の生活の中で
しっかりと今の現実を見据える子供
訳も分からずに
あどけなく年上の兄姉に甘える子供
はじけるように笑う子供‥
その写真集のどのページを開いても
生きることの素晴らしさや
生命の逞しさや尊さが
言葉を超えて
腹の底まで重く深く訴えかけてきました
そんな土門拳が
持てる渾身の力を振り絞って
様々な寺院を撮影したのが
「古寺巡礼」です
この写真集に収められた
寺院や仏像を
一体どんな言葉で表したらいいんでしょうか?
‥
よくお寺さんに行くと
いかにも
戦後や平成に彫られたような
真新しい石仏があったりしますが‥
ああいった新しい仏様が
全然霊験新たかに感じられないのは
俺だけでしょうか?
確かに
一見見た目には綺麗に彫られてはいますが
それを彫った人の心の中に
神仏への敬謙な気持ちを見出すことが
どうしても出来ないんです
それに比べて
静謐な古寺の堂内に身を置き
古(いにしえ)から時を経てきた仏像と接したときに
音もなく心を浸して飲み込んでいく
あの厳かな品位と佇まい‥
「あれ」は
実際に自分自身がその場に行って
仏像と対峙するより他に
味わう術はない‥
というのが
多分普通の人の「常識」だと思いますが
そんな人達には
ぜひこの「古寺巡礼」を
静かな場所で
時間をたっぷり費やして見ていただきたいです
一体なぜ
たかが紙とインクで出来ているだけのものでしかない
一冊の写真集を見ることで
まるでその場に身を置いているかのような
アノ感覚を
これほど鮮やかに体験することが出来るのか?
‥これは
俺が個人的にそう感じているだけなんですが‥
仏像を彫った人の胸中にあった
神仏への敬謙な想いと志の高さと
まったく同じか
それ以上の敬謙な想いと高い志が
写真を撮った土門拳の胸中にも
しっかり「在った」からなのではないでしょうか?
そうとしか考えられないような「世界」が
「古寺巡礼」を開くと
確かに出現するのです
これだけでも
信じられない驚異だというのに‥
土門拳の古寺や仏像への想いは
さらに「その先」を見せてくれるのです
人間の目では不可能な
カメラのレンズを使うからこそ
見せることが出来る「景色」
それは
古寺や仏像の細部を
クローズアップすることであり
かつまた
通常では回り込めないような角度から
被写体を捉えることでもあります
言葉で書けば
なンだそんなことか‥と思うかもしれません
でも
世に数多あるそういったアプローチの写真が
往々にして
そういったアプローチだけが独り歩きしてしまい
単なる
「アプローチのためのアプローチ」に
終始してしまっているのに対して
土門拳の写真達は
どれもがすべて
「大いなるもの」への
敬謙で真摯な姿勢に貫かれていて
重みがまるで違います
中でも
俺の中で飛びぬけて強く印象に残ったのは
唐招提寺金堂の千手観音立像でした
みなさんは
千手観音というと
どんな印象を持たれるでしょうか?
俺は今まで
実際には正面からしか
千手観音を観たことがありません(汗)
正面から見ると
千手観音とはいうものの
その手は昆虫や蜘蛛
もしくは蛸の足や団扇の骨のようにしか見えず(大汗)
そんなていたらくだから
観た感想も
ほぉぉ見事に扇状に手が生えているなぁ
程度の感想しか持つことが出来ませんでした
ですが
土門拳は
その千手観音の「千手」の部分を
真横からUPで撮っているんです
では
そんな風に千手観音を横から撮ると
一体どんな「姿」が立ち表れるのでしょうか?
唐招提寺の千手観音は
大脇手42手
小脇手911手の
合計953手なんだそうですが
千手には47手足りないとか
そんな
具体的な本数がどうとかいうような瑣末事は
土門拳の撮った写真を見ていると
もうどうでもよくなってきます
横から見た千住観音の手は
四方八方に伸びています
力強く突き出される
何本かの大脇手の周りを
無数の小脇手が取り巻く様を見ていると
数限りなく‥という言葉が
知らず知らずのうちに胸中に浮かびます
それら無数の手の一本一本が
いかに心を込めて彫られているか‥が
写真だからこそ確認出来る
圧倒的な描写で迫ってきます
それら一本一本の手を
これほど丁寧に彫り上げるのは
どれほど遠大な作業だったことでしょうか?
気の遠くなるほどの年月をかけて
その一手々々を彫りあげた人の想いは
この世に生まれたすべての衆生を
遍(あまね)く救う
千手観音の慈悲の御心そのものに重なります
ほら
この手に摑まりなさい
ここにも手があるよ
ほら
ここにも
そこにも
あなた達のために
これほどまでに
私には手があるのだよ
そんな千手観音の御心を表す
無数の手・手・手‥
モノクロで撮られた
硬質な土門拳の写真の写真の中の
千手観音の手は
水平方向だけにでなく
本当に四方八方に
放射状に伸ばされていて‥
俺にはそれが
まるで
六道に咲いた
一輪の極楽浄土の花に見えました
そのたった一枚の写真を見て
俺は
あぁ 俺は救われた(報われた)
と
心の底から思うことが出来ました
‥
たかが印刷本で
たかが写真なのかもしれません
でも
土門拳の「古寺巡礼」には
心底己を虚しく諌めた人だけが放つ
祈りの閃光が
怒涛のごとく迸(ほとばし)り
溢れているのが感じられました
御仏を撮影した土門拳の「古寺巡礼」は
その本そのものが
姿かたちを変えた御仏の御姿なのだと思います
写真の究極の到達点のひとつが
土門拳の「古寺巡礼」には
はっきりと示されているように感じられました
‥
例によって
ムダにだらだら長いばっかりの駄文になってしまいましたが(汗)
図書館で写真集を観た話でした
by まこりんPM

ちょっとトサカ立った内容の日記が多かったので(汗)
今日はノンビリ穏やかに
写真集のことを書いてみたいと思います
ブランド志向というと
なんだかとても嘆かわしいもののように
あちこちで語られたりしますが
長年に渡って
多くの人達から支持を得てきたものには
やっぱりそれなりの「理由」も
ちゃんとあったりするわけで‥
小説でも映画でも
音楽でも
一過性でない
根強い人気があるものに接すると
それがなぜそんなに人気があるのか?
っていうことを
深く納得させられるケースが多いように思います
先日図書館に行って
あまりにも有名な一冊の写真集を
時間をかけてじっくり観ました
写真集の題名は
「古寺巡礼」
撮影した人は土門拳です
この写真集は
図書館で貸し出し可になっていますが
とても大振りな本なので
これを抱えて外を出歩くのは
少し勇気?が要ります(苦笑)
この写真集が
そんな具合にとても大きな本なのは
土門拳の強い意向によるもので
自分が撮影した写真集を
可能な限り良質なコンディションで観てもらうために
印刷や製本など細部に至るまで
徹底的に拘り抜いた結果
こんな大判な写真集になってしまったようです
実際
この「古寺巡礼」は
初版本は第一集から第五集まで
五巻に分けて上梓されたのですが
その第一集の値段が
手間隙かけ過ぎたおかげで
一冊23000円もしたんだそうです
初版が出版されたのは
1963年で
当時の大卒の初任給が約40000円だったことを考えると
その当時に
23000円で写真集を出す‥というのが
いかに桁外れなことだったのか
よく分かってもらえるんじゃないでしょうか?
この写真集を出した土門拳についてですが
およそ写真撮影が好きな人だったら
土門拳ほどのビッグネームを知らない‥
なんていうことはありえません
もし
写真が好きなのに
土門拳を知らないっていう人がいたとしたら
その人は
ハリウッド映画が好きなのに
スピルバーグを知らない‥とか
J-POPの女性アーティストが好きなのに
浜崎あゆみを知らない‥とかいう人と同じくらいに
トンデモナイ「もぐり」だと思います(苦笑)
俺はいつも漠然と思うんですが‥
写真界にとっての土門拳の存在は
日本映画界にとっての
黒澤明の存在に等しいような気がしますし
黒澤明と土門拳は
なんとなく印象(重さや固さや真面目さ)
が近しいようにも感じます
先の
写真集出版にまつわるエピソードでも分かるとおり
土門拳は完璧主義者であり
だからこそ
周りにも異常に厳しく
(なので「鬼の土門」と呼ばれていたそうです)
文字通り「魂を削るようにして」作品を生み出す姿は
地上に降り立った「鬼神」そのものだったのではないかな?
‥なんて想像をしたりもします
雁屋哲は
「美味しんぼ」の原案を練るにあたって
北大路魯山人をモデルに海原雄山を生み出した‥
とのことですが
俺は個人的には
海原雄山のあの獅子吼ぶりには
北大路魯山人よりも土門拳の姿を見てしまいます
日本写真界の巨星ということでは
土門拳と並び称される写真家に
木村伊兵衛という人がいますが
木村伊兵衛の場合は
黒澤明や北大路魯山人というよりは
小津安二郎や池波正太郎といった感じの
粋な江戸っ子の印象があります
そのせいでしょうか
同じように粋なParisian(パリジャン)の
アンリ・カルティエ=ブレッソンとは
土門拳よりも木村伊兵衛の方が
断然相性がいいように感じます
実際ブレッソンや木村伊兵衛は
小型レンジファインダーカメラ
(ズバリLEICAのことです‥笑)
を駆使したストリート・フォトや
スナップ写真の印象が強いのに対して
土門拳は
確かに35mmカメラのニコンやLEICAも
しっかり愛用してはいましたが
そういったカメラよりも
ジナーS 4x5のような大判カメラの方が
よく似合う気がします
俺が高校生の頃に
人気のあったトランペッターで
ハープ・アルバートという人がいましたが‥
この人がTVCMで
高らかにペットを斜め上に向けて
踊るようなステップで
渚を往きながら演奏するのを見て
何なんだコイツのこの軽薄さはっ!!(怒)
マイルス・デイビスの爪の垢でも
煎じて飲めっ!!!
‥なぁんて小馬鹿にしたものですが(大汗)
こういった
マイルス・デイビスとかにも通じる
ある種「求道的」なストイシズムが生む
のっぴきならない緊張感が芸術に昇華したときの
問答無用の凄まじさが
土門拳の撮る写真には漲っているように感じます
ハープ・アルバートを思い出したついでに
もう少し音楽ネタを書かせてもらうと‥
1960年代に
全世界の軽音楽シーンを席巻したのは
みなさんご存知のThe Beatlesですが
The Beatles解散の直接的な引き金になったのは
ポール・マッカートニーが
他のメンバー3人を告訴したからで
この裁判が
事実上のThe Beatles決裂を表面化させたことから
ファンの間では
ポール=悪人
残りの3人(中でも特にジョン)=善人
っていう図式が生まれたように聞いています
そういった流れの中で
The Beatles解散後
ジョンとポールが
それぞれソロ・アルバムをリリースしたんですが
ジョン・レノンがリリースした「ジョンの魂」が
恐ろしいほど深遠なテーマと世界観を持っていて
まさに「ロックの哲学者」ジョン・レノンの
面目躍如たるものだったのに対して
ポール・マッカートニーがリリースした「マッカートニー」が
もう本当に(笑)
軽くて牧歌的(?)でほのぼのしていて
ジョンのアルバムに比べて
あんまりにも和み過ぎて(!)いたこともあって
ファンの間では
もうポールは軽過ぎて薄っぺらいからダメっ!
ジョンの勝ちっ!
これで決まりっ!!
みたいな意見が多勢を占めていたように聞いています(笑)
ただ
後になって冷静に考えてみると
全世界のビートルズ・ファンや
ロック・ファンのほぼすべてを敵に回した
あの究極のアウェイな状況の中で
よくあれだけフレンドリーで
ハートウォーミングなアルバムを出せたもんだよなぁ
やっぱポールって天才だよなぁ
‥みたいな意見が盛り返してきたことからも分かる通り
重いものだけが
すべてに於いて優れているというわけでもなく
片や土門拳(ジョン・レノン)のような重い世界もあり
片や木村伊兵衛(ポール・マッカートニー)のように
軽やかな世界もあり
どっちもあって
みんな違ってそれがいい‥っていうのが
一番健全な姿のような気がします
‥話が思いっきり脱線してしまったので(大汗)
話題を土門拳に戻すと‥
俺が初めて
ちゃんと土門拳の作品に接したのは
高校生時代に買った
「筑豊のこどもたち」
という一冊の写真集でした
この写真集の初版が出版されたのは
1960年で
値段は一冊100円だったんだそうです
3年後に出す
「古寺巡礼」の23000円に比べて
「筑豊のこどもたち」の値段が異様に安いのは
消え行く炭鉱の町に暮らす子供達の姿を
ぜひ一人でも多くの人に見ていただきたい‥
という土門拳の強い意向があって
その結果
インクの質や紙質のレベルを
可能な限り「落とした」末に
こんなリーズナブルな価格設定になったんだそうです
このことからも分かるように
土門拳は
自分の美意識や完璧主義だけがすべてで
世の中の常識を無視して省みない‥
といったような人では決してなく
自分の写真に対する想いや目的のために
変化自在に提供方法を変えることが出来る人だったんです
「筑豊のこどもたち」の中に収められた写真は
それを観た高校生時代の俺の心を
強烈に貫きました
プロレタリアなどという生半可な横文字言葉が
裸足で逃げ出すほどの極貧の生活の中で
しっかりと今の現実を見据える子供
訳も分からずに
あどけなく年上の兄姉に甘える子供
はじけるように笑う子供‥
その写真集のどのページを開いても
生きることの素晴らしさや
生命の逞しさや尊さが
言葉を超えて
腹の底まで重く深く訴えかけてきました
そんな土門拳が
持てる渾身の力を振り絞って
様々な寺院を撮影したのが
「古寺巡礼」です
この写真集に収められた
寺院や仏像を
一体どんな言葉で表したらいいんでしょうか?
‥
よくお寺さんに行くと
いかにも
戦後や平成に彫られたような
真新しい石仏があったりしますが‥
ああいった新しい仏様が
全然霊験新たかに感じられないのは
俺だけでしょうか?
確かに
一見見た目には綺麗に彫られてはいますが
それを彫った人の心の中に
神仏への敬謙な気持ちを見出すことが
どうしても出来ないんです
それに比べて
静謐な古寺の堂内に身を置き
古(いにしえ)から時を経てきた仏像と接したときに
音もなく心を浸して飲み込んでいく
あの厳かな品位と佇まい‥
「あれ」は
実際に自分自身がその場に行って
仏像と対峙するより他に
味わう術はない‥
というのが
多分普通の人の「常識」だと思いますが
そんな人達には
ぜひこの「古寺巡礼」を
静かな場所で
時間をたっぷり費やして見ていただきたいです
一体なぜ
たかが紙とインクで出来ているだけのものでしかない
一冊の写真集を見ることで
まるでその場に身を置いているかのような
アノ感覚を
これほど鮮やかに体験することが出来るのか?
‥これは
俺が個人的にそう感じているだけなんですが‥
仏像を彫った人の胸中にあった
神仏への敬謙な想いと志の高さと
まったく同じか
それ以上の敬謙な想いと高い志が
写真を撮った土門拳の胸中にも
しっかり「在った」からなのではないでしょうか?
そうとしか考えられないような「世界」が
「古寺巡礼」を開くと
確かに出現するのです
これだけでも
信じられない驚異だというのに‥
土門拳の古寺や仏像への想いは
さらに「その先」を見せてくれるのです
人間の目では不可能な
カメラのレンズを使うからこそ
見せることが出来る「景色」
それは
古寺や仏像の細部を
クローズアップすることであり
かつまた
通常では回り込めないような角度から
被写体を捉えることでもあります
言葉で書けば
なンだそんなことか‥と思うかもしれません
でも
世に数多あるそういったアプローチの写真が
往々にして
そういったアプローチだけが独り歩きしてしまい
単なる
「アプローチのためのアプローチ」に
終始してしまっているのに対して
土門拳の写真達は
どれもがすべて
「大いなるもの」への
敬謙で真摯な姿勢に貫かれていて
重みがまるで違います
中でも
俺の中で飛びぬけて強く印象に残ったのは
唐招提寺金堂の千手観音立像でした
みなさんは
千手観音というと
どんな印象を持たれるでしょうか?
俺は今まで
実際には正面からしか
千手観音を観たことがありません(汗)
正面から見ると
千手観音とはいうものの
その手は昆虫や蜘蛛
もしくは蛸の足や団扇の骨のようにしか見えず(大汗)
そんなていたらくだから
観た感想も
ほぉぉ見事に扇状に手が生えているなぁ
程度の感想しか持つことが出来ませんでした
ですが
土門拳は
その千手観音の「千手」の部分を
真横からUPで撮っているんです
では
そんな風に千手観音を横から撮ると
一体どんな「姿」が立ち表れるのでしょうか?
唐招提寺の千手観音は
大脇手42手
小脇手911手の
合計953手なんだそうですが
千手には47手足りないとか
そんな
具体的な本数がどうとかいうような瑣末事は
土門拳の撮った写真を見ていると
もうどうでもよくなってきます
横から見た千住観音の手は
四方八方に伸びています
力強く突き出される
何本かの大脇手の周りを
無数の小脇手が取り巻く様を見ていると
数限りなく‥という言葉が
知らず知らずのうちに胸中に浮かびます
それら無数の手の一本一本が
いかに心を込めて彫られているか‥が
写真だからこそ確認出来る
圧倒的な描写で迫ってきます
それら一本一本の手を
これほど丁寧に彫り上げるのは
どれほど遠大な作業だったことでしょうか?
気の遠くなるほどの年月をかけて
その一手々々を彫りあげた人の想いは
この世に生まれたすべての衆生を
遍(あまね)く救う
千手観音の慈悲の御心そのものに重なります
ほら
この手に摑まりなさい
ここにも手があるよ
ほら
ここにも
そこにも
あなた達のために
これほどまでに
私には手があるのだよ
そんな千手観音の御心を表す
無数の手・手・手‥
モノクロで撮られた
硬質な土門拳の写真の写真の中の
千手観音の手は
水平方向だけにでなく
本当に四方八方に
放射状に伸ばされていて‥
俺にはそれが
まるで
六道に咲いた
一輪の極楽浄土の花に見えました
そのたった一枚の写真を見て
俺は
あぁ 俺は救われた(報われた)
と
心の底から思うことが出来ました
‥
たかが印刷本で
たかが写真なのかもしれません
でも
土門拳の「古寺巡礼」には
心底己を虚しく諌めた人だけが放つ
祈りの閃光が
怒涛のごとく迸(ほとばし)り
溢れているのが感じられました
御仏を撮影した土門拳の「古寺巡礼」は
その本そのものが
姿かたちを変えた御仏の御姿なのだと思います
写真の究極の到達点のひとつが
土門拳の「古寺巡礼」には
はっきりと示されているように感じられました
‥
例によって
ムダにだらだら長いばっかりの駄文になってしまいましたが(汗)
図書館で写真集を観た話でした
by まこりんPM

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